まずは平成5(1993)年。
結論を先に言ってしまうと、この選挙によってそれまで四期16年という長期にわたり塾長を務められた故・石川忠雄君から鳥居泰彦君への交代があった選挙でした。
まずステップ1)の「第一次塾長候補」ですが、各部門から以下の延べ20名が推挙されました。
名前の後にカッコ書きで学部名が書いてある方は、当該部門以外の方が推挙されている場合で、カッコ書きで所属学部を記載しています。
第一次塾長候補氏名(五十音順)
文学部:大島通義(経)、小谷津孝明
経済学部:大島通義、鳥居泰彦
法学部:石川忠雄、堀江堪
商学部:田村茂、藤井彌太郎
医学部:石川忠雄(法)、植村恭夫
理工学部:有賀一郎、加藤寛(総)
総合政策学部:石川忠雄(法)、加藤寛
環境情報学部:相磯秀夫、石川忠雄(法)
諸学校:石川忠雄(法)、加藤寛(総)
職員:石川忠雄(法)、植村恭夫(医)
これを、個人別に推挙された部門数で並べ直してみると以下のようになります。
のべ20名:
6:石川忠雄(法)
3:加藤寛(総)
2:植村恭夫(医)
2:大島通義(経)
1:小谷津孝明(文)、鳥居泰彦(経)、堀江堪(法)、田村茂(商)、藤井彌太郎(商)、有賀一郎(理)、相磯秀夫(環)
数だけでみると、石川塾長が6部門とダントツなわけですが、その中身を見てみるとちょっと様子が変わってきます。
石川塾長を選んだ6部門は「法、医、総、環、諸学校、職員」。「総、環」の2部門はやはり「SFCの生みの親」を選択し、「諸学校、職員」についても現体制の継続、法学部は出身母体、という感じだったのでしょうか。
第2位(3)の加藤寛君の支持は「理、総、諸学校」。第3位(2)の植村恭夫君は医学部と職員。職員については病院と事務を分けずに一部門扱いなので、医学部・病院が安定的に推移した結果でしょう。同率3位(2)の大島通義君は自部門(経)に加えて、文学部からも支持があった様子が見てとれます。
そして、この延べ20名が第一次塾長候補として「塾長候補者推薦委員会」に推挙され、委員会において投票が行われたわけです。
この年はまだ10部門でしたから、文・経・法・商・医・理工・諸学校・職員が各48名、総・環が各24名(計48名)の432名(票)。
そして、この投票の結果、以下の3名が「塾長候補者銓衡委員会」に選出されました。
第二次塾長候補
石川忠雄(法)、植村恭夫(医)、鳥居泰彦(経)
ポイントは、推薦部門最多の石川塾長が順当に残るとともに、2位だった加藤寛君が消え、推薦部門数1だった鳥居泰彦君が急浮上したところでしょうか。
そして最終的に塾長候補者銓衡委員会において、当時経済学部長であった鳥居泰彦君が塾長候補として選出され、評議員会において塾長に選任されたというわけです。
注)上記の第一次塾長候補者、第二次塾長候補者の並び順は全て五十音順であり、『慶應義塾年鑑』掲載のものと同様です。
3月14日の三田の桜(その2)
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2009年10月18日:2009年慶應連合三田会大会まで、あと215日
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