まずは「塾高グランドの人工芝」。
今回の創立150年記念事業の一環で、これまで土がメインだった塾高のグラウンドが人工芝に張り替えられることになり、ちょうど工事が最終段階でした。
そこから更に奥(綱島側)に進むと、そこには、なんとチャペルが。
非ミッション系の大学としてチャペルを持っているのは珍しいそうで(私も初めて知りました)、どうやら慶應義塾大学YMCAが使っているようです。
とあるウェブサイトによると、1936年にできたチャペルのようで、第二次大戦中には接収された施設のひとつとして、海軍の通信傍受用の施設として使われていたとのことです。
このチャペルの横を抜けると、そこはキャンパスの外。
ここは日吉キャンパスの右側の境界にあたります。
そして、この境界線を上へ上へと登っていくと・・・・
そこには
「弥生時代住居址群」の看板が。
弥生式土器が発見されたのは、東京大学のある文京区弥生町でしたが(
本郷キャンパスの横、農学部があるところです)、我が義塾の敷地内にも弥生人は住んでいたようです。
こちらが先に発見されていれば、「弥生」時代は「日吉」時代になっていたいのでしょうか・・・
現在、住居址はコンクリートによって固められて保全されています。
さて、そこから更に上がっていくと、
その先にあったのは、
「イタリア半島」です。
慶應義塾におけるイタリア半島とは、
日吉キャンパスの地形の形状のうち
(1)健康保険組合テニスコート(教職員専用)付近から寄宿舎に至る敷地の形状
(2)自動車部練習場付近の敷地の形状
を指しており、
今回私が目指していたのは(1)のほうです。
このイタリア半島には「慶應義塾大学日吉寄宿舎」が建っており、建設当初は三棟ともに供用されていたようですが、現在では一棟だけが利用されています。
この寄宿舎、いまでこそ建物としては古くなってしまっていますが、開寮当時は「東洋一の学生寮」と呼ばれるほど立派だったそうです。
その立派さが災いしたか、第二次大戦当時には、先に見学した地下壕から地下道&階段でつながっており、幹部用の宿舎として用いられていたとのことです。
現役の中寮。
退役した南寮。
さて、イタリア半島を後にして、元来た道を綱島街道へ向かって降りていったわけですが、
右手に陸上競技場が見え、「なるほど、こっち側から見るとこんな感じで見えるんだな」なんて思って道路の反対側を見たら・・・
仏教青年会。
な、なんとこんなところに部室が。
初めて知りました、仏教青年会の部室が、陸上競技場より更に先にあるなんて・・・
そしてそこから少し下ると、陸上競技場への入口。
そこからすぐに綱島街道に到達。
綱島街道に到達すると、そこには、日吉駅側(北側)からではない、いつもとは違ったアングルの、南側からの協生館が。
南側から見た協生館。
ということで、ある程度テナントが入り終わった協生館に入ってみることにしました。
協生館入口(1階)
協生館入口(2階から1階を見る)
協生館入口(2階、地上からスロープで上がる)
協生館に入って、まず目に飛び込んできたのが、パネル。
この協生館、ただ単なる大学の施設としてではなく、地域住民にも供用・開放している施設ということもあり、キャンパスの全容や歴史がわかるようなパネルを置いているようです。
入口右横のパネル。
1階入口奥、左にあるパネル(左側)
1階入口奥、左にあるパネル(右側)
1階入口奥、左にあるパネル(地下壕部分をクローズアップ)
このパネル展示にも、この日吉キャンパスの「宿命」である地下壕について書かれてありました。
さてさて、それはそうと、協生館の最大の特徴は、大学の施設でありながら、一般のテナントが入っているというところでして、
入口手前(陸上競技場側)に「タリーズコーヒー」、
入口をちょっと入ると、左に「セントラルスポーツ」、
奥へ進むと「慶應義塾出版会」に、
一番奥には「ベネッセチャイルドケアセンター」と続きます。
一方、右側(綱島街道側)には
奥には「HUB」が
手前には「ローソン」があります。
2階には、
陸上競技場側の緑を借景にする形の「クイーンアリス」、
綱島街道側には、
「コミュニケーションセンター」と
「イーサイド」という会社のオフィスが。
まだまだ建物自体の認知が低いとは思うのですが、これからどうなっていくのか、楽しみです。
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2009年10月18日:2009年慶應連合三田会大会まで、あと181日
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