当日は、朝から霧雨模様で、会場である青山葬儀所に到着した10時すぎも雨がパラパラと降っていました。
さて、初めて訪れた青山葬儀所は、青山墓地の一角、六本木側にあり、最寄り駅としては千代田線の乃木坂駅になります。
乃木坂の駅から青山葬儀所へ向かう道すがら、横を走る外苑東通りからは青山葬儀所に入っていく黒塗りの車が数知れず。
青山葬儀所に入り、長いアプローチから受付に抜けると、そこには多くの受付窓口が。
告別式場から一番遠い所に「一般」用の窓口があり、そこから順々に石川塾長との関係に従って様々な窓口が。
告別式場に最も近い一番右側が「親族・親戚」で、そのすぐ左が「評議員」の受付でした。
受付で香典をお渡しして、記帳の代わりに名刺を渡し、中へ。
告別式場に向かうには、受付から中庭を右に見つつ30メートルぐらい通路を進む必要がありましたが、その中には塾旗が立錐の余地もないほどに林立し、その向かい側には供花を出した方々のお名前の札がビッシリ。
告別式場に近い所に、親族・葬儀委員の方々の札があり、その次に義塾関係者。そのあとは50音順に数百の札が掛けられていました。
さて、いかんせん到着したのが早かったため、開式までしばらく来賓控室で待つことに。
当然のことながら、石川塾長の関係者ですから、来賓室には見渡す限り、政財学の大物がずらり。
評議員会での場違いには徐々に慣れて始めてはいるものの、さすがにこのような厳粛な場では身動きすることもできず・・・
11時開式だったわけですが、会場へは10時半に案内され、来賓控室から順に案内されました。
会場前には葬儀委員長となった安西塾長、葬儀委員の福沢評議員会議長、国分法学部長、小此木法学部教授等々が親族の方々と並んでらっしゃいました。
意識したわけではなかったのですが、会場に比較的早く入ってしまい、結果的に前から3列目の席に座ってしまうことに。
(1列目は葬儀委員の方々の席)
一列前には、中曽根元総理、森元総理、小泉元総理、塩川元財務大臣と、錚々たる方々が。他にも評議員を務めてらっしゃる財界の大物の方々や学界の重鎮(元学長、学長)などの姿もありました。
あぁ、場違い・・・
さて、式そのものは
一、導師・式衆入場
一、開式の辞
一、読経
一、告別の辞(安西塾長)
一、弔辞(山田名誉教授、福沢議長、内藤三田体育会会長)
一、弔電拝読(現総理、日銀総裁、中国からも)
一、葬儀委員長挨拶
一、焼香
一、導師・式衆退場
一、閉式の辞
一、お別れ
一、遺族・親族代表挨拶(長男・喪主:石川梓氏)
一、出棺
という順に進みました。
正面の祭壇には大きな石川塾長の「凛々しい」写真があり、その正面には位牌が、そのすぐ右には天皇陛下から下賜された祭祀料が置かれていました。
そのほかにも、祭壇右側には勲一等旭日大綬章、左側には文化勲章が掲げられていました。
24年前の義塾創立125年の際に塾長だったのが石川氏であり、安西塾長の告別の辞にもありましたが「150年には参列するよ」とおっしゃっていたようです。
4期16年という長期の塾長在任の中で、125年式典、信濃町新病棟、湘南藤沢キャンパス等々、私の知っている義塾はまさしく石川塾長時代に形作られたものです。
また、大学審議会会長として大学設置基準の大綱化の実現に尽力されたのも石川氏でありました。
巨星墜つ。
直接の面識を得ることは叶いませんでしたが、評議員として同じ時間を少しでも共有できたことを幸せに思います。
安らかにお眠りください。
青山葬儀所を後にする際、雨は上がり、多くの会葬者が列をなしていました。
【今日(10月4日)は何の日】
第1回遣唐使帰国(632)、富岡製糸場が操業開始(1872)、「八時だよ全員集合」放送開始(1969)、「笑っていいとも」放送開始(1982)、
【今日が誕生日】
クロムウェル(1626)、ミレー(1814)、新村出(1876)
【今日が忌日】
レンブラント(1669)、徳川綱條(1718)