早稲田が04年に国際教養学部を、
上智が06年に比較文化学部を国際教養学部を、
桜美林が文、経済、国際の3学部を「リベラルアーツ学群」に、と。
そして「元祖教養」の国際基督教大学が、来年2008年度から学部内の学科を廃止し31の専修分野(メジャー)に再編するそうです。
育め「広い教養」 「専門」の枠超える試み続々
《新聞記事:朝日新聞10月23日付け》
さて、ココで疑問。
日本の大学って、そんなに「専門」を教えてましたっけ?
そんなに「教養」、教えてませんでしたっけ?
これは、どの大学で学んだかによってニュアンスが違ってくると思うので一概には言えないのですが、本当の意味で専門特化した学問分野だけを集中して学ばせるような文系学部って、ほとんどないと思うんですよね。
むしろ4年間のうちの前半の2年は、自分が所属する専門学部の領域とは離れた分野のことを学んでますよね?
私自身は「法学部政治学科」に在籍していたわけで、自分自身としても「政治学を学んだ」と認識してはいますが、それはあくまで軸を構成する部分であって、実際には幅広くいろいろなことを学んだ記憶があります。
とはいえ、これは政治学科が他学部他学科の科目を履修しやすいカリキュラム構造にあったという環境要因も寄与していますが、私自身、文・経・法・政・商・医・理工・SFC(総環)と、その当時あった学部が設置した科目をすべて履修したりしていました。
さて「教養」に話を戻しますが、最近の動きは結局のところは「大学としてのマーケティング」の観点と、「カタカナ学部のネーミングの限界」が行き着いたところなんじゃないかと思っています。
そもそも大学なんて、将来学者になることを志す一部の学生を例外として、ほとんどの学生は「専門分野」を学んでいるのではなく、専門分野を通じた「学問の作法」を学んでいるわけで、その作法を学ぶためのフィールドが学部別に分かれているというだけだと思っています。
むしろ、専門学部に分かれているのは多分にそこで「生活」している教員のためである部分が強いのであって、学生にとっては(特に文系学部)、ほとんど意味をなしません。
別に他の授業に潜ったとしても咎められるわけでもないし、むしろ「大学」という空間だからこそ、「自分にとっての教養」を形づくる機会がふんだんに用意されているのではないでしょうか?
むしろ、その「(自分が考える)自分にとっての」が「(大学が考える)自分にとっての」になってしまっては、それこそ「教養の押し付け」になってしまうのではないでしょうか?
もっとも、こんな考え方をする力が学生から失われつつあるという議論も根強くありますけどね・・・・
【今日(11月2日)は何の日】
読売新聞創刊(1874)、石井・ランシング協定/バルフォア宣言(1917)
【今日が誕生日】
マリー・アントワネット(1755)、良寛(1758)、横山大観(1868)
1877年 - アーガー・ハーン
【今日が忌日】
藤原道綱(1020)、立花道雪(1585)、平田篤胤(1843)、オールコック(1897)
↓面白いと思ったらクリックお願いします。