なぜ、このマクラコトバを付ける必要があるのか。
その理由は簡単です。
もっと歴史の長い大学があるからです。
例えば、種智院大学。
大学ウェブサイトの「沿革」のページを見ていただければ一目瞭然ですが、種智院大学の起源は弘法大師空海が開いた綜藝種智院(828年)まで遡ります。
・種智院大学:沿革
「大学」という言葉を歴史に捜しに行こうとすれば、それは大宝律令によって成立したとされている「大学寮」にまでさかのぼることができます。
・大学寮(ウィキ)
さて、なんでこんな話を書いているかといえば、こんな記事を見つけたからです。
蘭米からも来賓迎え記念式典 長崎大医学部150周年
《新聞記事:長崎新聞11月11日付け》
具体的な記事の中身はというと:
西洋医学教育発祥、長崎大医学部創立百五十周年の合同記念式典が十日、長崎市坂本一丁目の同大医学部であった。日本西洋医学教育創始者のオランダ軍医ポンペの祖国にあり、同大と学術交流協定を結ぶライデン大など国内外から約五百人が出席。ポンペの精神「医師は病める人のもの」を原点に、さらなる大学の発展、医学の進歩を願った。
江戸時代末の一八五七年十一月十二日、ポンペが長崎奉行所内の医学伝習所で医学を教えたのが、日本西洋医学教育の起源。その日が長崎大医学部の創立記念日になっている。医学部は明治以来一万人以上、戦後五千人以上の卒業生を送り出している。
式典で河野茂学部長は「長崎大は日本最古の西洋医学の歴史がある一方、世界唯一の被爆医科大という悲しい歴史があり、人類のため放射線の研究に取り組んでいる。地域に貢献し、最先端の医学を世界に発信したい」と式辞。日本医学会の高久史麿会長は「ポンペは『医師は病める人のもの』という本質で、医師を育てた。今、果たすべきものを考えさせてくれる」と述べた。
来賓を代表し、駐日オランダ大使のアルフォンス・ハーメル氏は「百五十周年は過去と今日、未来を見据える機会を与えてくれた」、金子知事は「本県医療の中核機関としての役割に期待する」と祝辞。齋藤寛学長が「世界トップレベルの教育を展開し、社会に貢献したい」とあいさつし、締めくくった。
記念講演では、ノーベル賞受賞者の米国の科学者、スタンレー・プルシナー氏が「プリオンと神経変性病」、国際司法裁判所判事でライデン大教授の小和田恒氏が「幕末期の日本と洋学」と題して語った。
同日夜、同市宝町のベストウェスタンプレミアホテル長崎で記念祝賀会があり、出席者は医学部の将来に期待を込め乾杯した。
この場合、長崎大学という大学全体ではなく単一の学部(医学部)のこととはいえ、2007年現在で言えば、東大の130年よりも、早稲田の125年よりも、義塾の149年よりも長い歴史を持つわけです。
敬服します。
【今日(11月21日)は何の日】
藤原基經が関白に就任(887)、三田綱町球場にて早稲田大学野球部と慶應義塾大学野球部の対抗戦(慶早戦の起源)(1903)
【今日が誕生日】
藤原(九條)頼嗣(1239)、ヴォルテール(1694)、曾國藩(1811)
【今日が忌日】
日蓮(1282)、フランツ・ヨーゼフ1世(1916)、橋本龍伍(1962)