福澤先生は、1835年1月10日(旧暦:天保5年12月12日)に大坂堂島浜(現:大阪市福島区)にあった豊前国中津藩(大分県中津市)の蔵屋敷で下級藩士福澤百助・於順の次男として生まれました。(現在、生誕地には「福澤諭吉誕生地記念碑」が立っています。)
塾生の頃、この日は「休みになる日」というぐらいの認識しかなかったわけですが、評議員となった今となっては「公務の日」となりました。
昨年の今頃は、修士論文執筆の大詰めだったため、昨年の会には参加することができず(もう少し計画的にやるべきでした・・・)、評議員としては今回が初めての出席となりました。
さて、この誕生記念会の日には南校舎側入り口には塾旗が立ち、

その塾旗の下には

と、創立150年と今日の行事を示す看板が立っていました。
実際の誕生記念会は、西校舎ホールにて10時半から始まったわけですが、平日の午前中にも関わらず、ホール内はかなりの列席者で埋まっていました。
私はといえば、このお役目ゆえの役得(?)で、前列右側の「役員席」に通され、常任理事や他の評議員の方々の間で「小さくなって」着席することに。
10時半からの式は
1)開会
2)「福澤諭吉ここに在り」合唱 幼稚舎生
3)「日本の誇」合唱 ワグネル・ソサィエティー
4)年頭挨拶 塾長 安西 祐一郎
5)記念講演「言論人・福澤諭吉に学ぶもの」産経新聞社代表取締役会長 清原 武彦 君
6)福澤家代表挨拶 福澤 範一郎 君
7)小泉信三賞全国高校生小論文コンテスト表彰状授与
8)塾歌斉唱
9)閉会
と進みました。
2)3)の二つの曲は、お恥ずかしながら初めて耳にしました。
4)では、塾長は、今年の創立150年の記念行事のことを多く述べられ、この混乱した今だからこそ義塾社中の結束と「全社会の先導者」たることを目指す義塾の教育が求められている旨、述べられておりました。

(私の席からの様子。手前右の大きな頭は村井理事。左の横顔は山崎理事。山崎理事の顔の横の眼鏡の男性は服部連合三田会会長、その横は鳥居学事顧問。村井理事の奥に肩だけ見えているのは福澤評議員会議長。檀上は、演台に塾長、写真右から清原産経新聞会長、福澤範一郎夫人)
5)では、現在「時事新報」の名前を「預かっている」産経新聞の清原会長が、福澤先生が時事新報に掲載した『尚商立国論』『丁丑公論』を紐解いて、言論人としての福澤先生の矜持や、「気品の泉源、知徳の模範」たるべき義塾社中のあるべき姿について述べられていました。
6)でご挨拶された、福澤範一郎さんは、福澤先生の曾孫にあたられる方で、福澤宗家として、福澤家の親戚一同を代表してご挨拶されていました。(写真等)「人が集まることが好きだった諭吉は、皆さんが誕生日に集まって来て下さっていることを喜んでいると思います」という言葉が印象的でした。
さて、会場を生協食堂に移して、12時半からは「新年名刺交換会」でした。
あの生協食堂に、人が入る!入る!
全員で塾歌を(3番まで!)斉唱した後、福澤評議員会議長からの「乾杯」の声。
その後は、居並ぶ列席者の方々が、
動く!
動く!
特に義塾に業者として出入りされている方々は、次々と常任理事をはじめとする役員の皆さん方にあいさつ回りのオンパレード。
私は参加が初めてだったこともあって、しばらくどう振る舞って良いのか分からず、しばし立ち往生。
とはいえ、前回の選挙で署名捺印していただいた方から挨拶を頂戴したことをキッカケに、行動開始。
誰だ誰だか分からず、声をかけるのも一苦労という感じだったので、多くの方にご挨拶するというわけにはいかなかったものの、何名かの方にはご挨拶することができました。
何よりも、色々な形で私の存在を知っていただいている方とお話しできたのが非常に嬉しかったです。

(会場の様子。正面に鏡餅が)
会の最後は、全員で「若き血」を斉唱して終わりました。
そして私は仕事へ・・・
来年はもう少し「挨拶作戦」を練ってから臨もうと思います。
「塾員」であれば、どなたでも参加が可能な行事ですので、可能であれば皆さんもどうぞ。
初春の三田の山へ。
追伸:
土曜日(12日)、ラグビー大学選手権の決勝は、国立へ向かいます。
【今日(1月10日)は何の日】
カエサルがルビコン川を渡る(紀元49)、天正から文禄に改元(1593)、国際連盟発足(1920)、NHK教育が放送開始(1959)
【今日が誕生日】
福澤諭吉(1835)、 尾崎紅葉(1868)、高山樗牛(1871)、島村抱月(1871)、河野太郎(1963)
【今日が忌日】
徳川頼宣(1671)、徳川綱吉(1709)、大隈重信(1922)、 ココ・シャネル(1971)

またお会いできることを心待ちにしております。